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神田町の紹介

** 神田の町名由来 **
太刀川喜三
 神田の町名起原については、年代は不詳であるが、人々がこの地に住み付いたのは古く、「天正村名考」(1573〜1581)には、神田の地名で212軒の住居が記されている。神田には、蔵王権現に献供した米田があり、これを耕作した人々の住居であり,神に納める米を造る村,神の田「神田」との呼び名になった。その昔は「神戸」とも言ったらしい。
 もっと時代を遡ると、今の安善寺境内の辺りに永仁年間(1293〜1298)大沼城という城があり、北條仲時の一族の北條丹波左近太夫惟秋(コレアキ)とその子惟明(コレアキ)の二代が居城し、惟明は元弘三年(1333)北條仲時と共に近江国で自害したと言う。
 その際老臣渡辺勘解由惟光(カゲユコレミツ)が城主の家族を見守っていた。やがて野武士に追われた後も惟光は城跡の裏に住居を求め、主家の墳墓を守ったという。
 また、城の北側(今の安善寺の北側)に大きな池があり大蛇が住んでいて住民に危害を加えた為、山本という槍の名人が退治したと云う伝説(伝説三盃池)がある。
 神田は天和年間(1681)に四ヶ丁に分けられ、文書に依れば神田一之町は天保二年(1831)、二之町は天明八年(1788)、三之町は享和元年(1801)、鍛冶町は元文五年(1740)にそれぞれ初見されている。鍛冶町は神田の北側にあった。もともと桶屋町、鍛冶町は独立した町であったが後に神田に編入されたらしい。
 鍛冶町は蔵王権現の鎌王神の御神体、神具を鍛造したらしいが桶屋町は同じく蔵王権現の桶王神の御神体、その他桧物を作った桧物師が住んでいたことから生れたものという。 一説には村松侯という殿様が喉のかわきを癒し、水をくれた桶屋に呼称を下賜された事から町名が生れたともいう。
 神田は前述の通り、蔵王権現の神田があった事から蔵王の神社とは関係が深く、蔵王の祭りには船形屋台が出され神田囃子が演じられたがこれが現在まで継承され少彦名神社の祭りに奉納されている。少彦名神社は寛永年間から続く由緒ある神社で藩政時代には神田掛がおかれ神田口御門がこの方面に建っていた。
 明治中期、浦瀬に石油が発見された頃は町内に小売店が軒を連ね市内随一の繁華街となった。又、昭和25年に今の神田小学校の場所で戦災復興博覧会が有り、当時、芸能界の第一人者であった落語の三遊亭小金馬が博覧会に出演し、そこでミスタバコ博に一目ぼれ求婚し長岡娘(田中嬢)と結婚、日本中の話題になった事を知る人は今は少ない。桶屋町は神田の南側にあった
** 少彦名神社について **
(長岡の史的回顧)を参考とする   太刀川喜三
◎祭神
 祭神は「少彦名命」(スクナヒコナノミコト)が祭られ、日本書記には少名毘古那神とも記され、体形が短小であられた為に出来た御名であると書かれている。
「すくなし」の意味は現在は数の少ない意であるが、古くは形の大小に対しても用いられた語で、万葉集にも「小彦名」とも書かれている。
 古事記には、神産巣日神(カミムスビノカミ)の子として生れ、朝鮮の地を治めた後、帰国し大国主命(オオクニヌシノミコト)と兄弟の誓いをして国土の修復,発展に努められた。
禁厭(キンエン)(悪事,災難を防ぐの意),医薬の道を人民に広めた神様である。

◎由緒
創立年代は不詳であるが,明治末に書かれた「長岡の史的回顧」に約450年前と記されているので、今から約540年前頃に建てられた物らしい。
現宮司諸里氏の祖、初代諸里四郎正勝が天正二年(1574)に奉仕されて居たと記録に記されているので,それ以後430年を経ているが,それ以前、ここは大沼と呼ばれた沼地で,その沼に昔から石祠があり薬師を祀ってあった。
それは初代諸里氏が奉仕される以前、数百年を経た物であるという。
 文禄元年(1592)神田村の鎮守と定まり、村民はこれを医王の神として崇敬した。慶長年間(1596〜1614)南魚沼郡の坂田城主 堀丹後守が祈願を立て、その後、堀氏が長岡移封の際、社守に扶持と境内地を下附された。
次いで、牧野家に至っても崇敬篤く、明治維新に至るまで、社守奉仕を任され五人扶持(一日に玄米4〜5合の割合で毎月支給)を給し、又、神鏡を奉納された事もある。
戊辰戦争で社殿は全焼した為、旧記文書及び宝物類は全部失われたが、幸わい御神体のみ無事であった。
明治維新以前の当神社は薬師と称せられ、初代諸里正勝氏は真言宗を修めて医王山竜王院永正と改称して奉仕し,子孫代々受け継がれてきたが、明治二年神仏分離の際、薬師を少彦名神社と改め、同五年に村社とする旨、柏崎県から通達があったが、翌六年町村制の改革に伴ない社格が廃止された。
 戊辰役で全焼した為、仮宮であった社殿は、明治11年明治天皇が北越行幸の際、長岡表町学校脇に御行在所(現在の明治公園内)を設け寝所とされた建物を遷して、当神社の拝殿に充て、明治天皇の御遺徳を偲び、又、神社の神徳と相俟って地域人々の尊崇を受け、{神田の薬師さま}の名で市民に親しまれている。
 大正8年に再び村社に加えられ、同時に幣帛供進神社に指定された。


** 少彦名神社について **
                     
 この歴史、由緒ある社殿.境内には数々の貴重な文化.史跡資料がある。現在、誰一人知る人もなく境内の片隅に置かれた苔むし古色蒼然たる三基の石祠は、前述した沼のほとりに祀られて数百年を経た薬師を祀った石祠
との確立が高い。又、伊勢内宮荒木田神主書「行在所紀念碑」の石碑や二宮尊徳の石像とその台座に刻まれた明治神宮宮司 有馬良橘に依る「敬神崇祖」.変った物では明治の建国時、国土地理院で測量製作された大日本
國地図の基となった「長岡市の標高基石」(これは東京湾の水位を0米とした標高基石で神田町の標高20.165mである)。
又、拝殿内には明治天皇行在所に使われた唐紙片の額、大正〜昭和初期に活躍した日本画壇の大御所であった小野竹喬画「富士」や小室翠雲画「花鳥」の大額、昭和期日本陸海軍の各大将が献書された奉額等多々ある
神田町にまつわる伝説   〔 三 杯 池 〕
(新潟県伝説集成…小山直嗣 著)
 昔、神田町は、芦やかつぼが群生する沼地だった。 その頃、ここに大きな毒蛇が住んでおり、近くを通る子供達を殺して、生血をすすった。 
 人々は恐れて近づかなくなった。 するとこんどは夜中に町へ出てきて、人家を襲い家畜などを殺した。  困り果てた人々は、「夜もおちおち眠れません。 どうぞ毒蛇を退治してください」と長岡藩主に願い出た。
 そこで藩主は、山本某と言う武士に毒蛇退治を命じた。 普通の手段では退治出来ないと思った山本は、酒で酔いつぶして退治しようと、毒蛇が通る道に、ふたを開けた三個の酒樽を置き、待機していた。
 すると酒の好きな毒蛇は、そんな企みがあるとは知らず、まず一つ目の酒樽を飲みほし、さらに二つ目も飲乾して、三つ目の酒樽に首を突っ込んだ頃には、酔いが回って動けないようになっていた。
 その機をのがさず山本は、槍をしごいて毒蛇に立ち向かった。数か所に槍傷を受けた毒蛇は、ようやく沼まで逃げ延びたが、ここで毒を吐きながら死んでしまった。
 それからこの沼のそばで、  「サンバイ、サンバイ」  というと、沼の水が急に波立ち底からぶつぶつと毒気のある泡が湧いてきたという。三杯池とは、これから名づけられたものだが、今では沼の跡形もなく、家並が続いている
大正期の少彦名神社
神田一丁目略図
地図