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** 神田囃子について **
太刀川喜三  .
長岡の歴史散歩 山崎昇著(昭和57年11月15日発行).一部長岡市史より抜粋  .
 長岡の屋台囃子は昔、神田囃子と蔵王の屋台囃子が主なるものであった。その後、幾変遷を経て蔵王の屋台囃子は消滅してしまったが、神田囃子は屋台と共に最近復活した。
 神田囃子は正式には 「神田屋台囃子」 と云う。この囃子は牧野公開府当時(元和4年…1618年)から正統を守り貫いてきた物で少なくとも笛5人、大太鼓、小鼓、鐘と計10名位で演じられてきた。そして、昭和の初期頃まで神田1丁目の人達を中心に継承されてきたが、その後衰退し消滅寸前の時に危機感を覚えた町内有志の青年らが立上り昭和53年頃から復活に力を入れ、現在神田1丁目の少彦名神社の祭礼に奉納されている。
 神田町内の言い伝えによると、この囃子は順徳天皇が佐渡に流される時、配流の沿道である長岡の人達が慰めようとしたのが始まりで、その後牧野氏が長岡藩主になってから蔵王金峰神社の祭礼の流鏑馬にこの囃子が加わり、曲もそれに合わせて整えられたという。また、江戸中期以後、藩主が京都所司代を務めるようになってからは、祇園囃子の影響も受け優雅なものに洗練されたようだ。はやし屋台は俗に 「しゃぎり」 ともいった。神田組の囃子屋台はいつからか宝船の飾りをして華やかであったので、藩主から賞美されたという。
 以来、神田の大船と呼んで有名となった。蔵王の大船屋台も同様に大形宝船の形をしていた様である。
 屋台は初め町家から思い思いに出したものだが、宝暦13年(1763年)にはこれを禁止して、一町から一本ずつの傘鉾と屋台を出すようにした。 これを統制して次のように18台の屋台と定めた。
 
表町組 花屋台七台 囃子屋台一台(上田町受持) (表1〜5ノ丁、呉服町、関東町、上田町の八町内)
裏町組 花屋台五台 囃子屋台一台(柳原町受持) (裏1〜4ノ丁、渡里町、柳原町の六町内)
神田組 花屋台三台 囃子屋台一台(神田一ノ丁受持) (神田1〜3ノ丁、桶屋町、鍛冶町の五町内で神田2.3と桶屋町、鍛冶町の4町内で花屋台3台)
 
 金峯神社の祭りは7月15日、神事の一部である流鏑馬と共にこの屋台が呼び物となっており、古くから近郷近在の人出も多く非常な賑わいを呈していたのである。しかし、流鏑馬は現在なお伝承されているものの、神田のみ残して屋台も囃子もすでに姿を消してしまい、誠に残念である。
 昔、この祭りには、長岡の十八ヶ町から金峯神社に献供する屋台に対し、13日に蔵王の神官逹が巡回して修祓を行うのが常で、これを「露払い」と云った。翌14日には朝四ツ頃(午前10時)に各屋台は裏四ノ丁(現本町3)に集合し、それより裏町通り、渡里町、上田町、柳原町、同心町、表一ノ丁まで牽引し、町口御門で待ち合わせ、夕方になると各自の町内に引き返すのであった。 15日の本祭日は屋台は朝、暗いうちから神田口御門に集まり、町々を引き回し新町4丁目(現新町2)の屋台小路から蔵王に向かった。 屋台が神社に着くと役屋台は迎え屋台が来るまで、しゃぎりながら宮巡りし、迎え屋台が来ると一緒に帰りかけるのだが、道が狭い所に役屋台、迎え屋台、それに燈籠も加わって、さらに人の混雑で大変な賑わいとなったらしい。
 屋台の先頭は神田と千手が交代に勤めていたようである。 先頭が神田の時は神田は近くて急がない為、最後に廻る千手の屋台は遅くなり、自分の町に帰り着くのは翌朝八時頃になったと云う。 それこそ、武士から町民、農民に至るまで、長岡町中をあげての最大の行事であった。
 囃子は屋台が出発前に客寄せのために奏する「寄せ囃子」、次いで長岡城下から金峯神社に参上する道すがらはやす「通」別名「上り屋台囃子」、神社社前で奉納のため奏する 「奉納本囃子」 つまり 「真しゃぎり」、最後に金峯神社から各々の町に帰る道すがらはやす 「さまよー」 の四通りがあった。
 神田町の屋台は漆塗りの立派なもので人力による牽引車であったが、昭和廿年の空襲で諸里家の物置と一緒に焼け落ちてしまった。 昭和廿三年に再建したものは牛車であったが、農耕に牛が使われなくなったことと、その後自動車時代となり使われなくなってしまった。 昭和五十三年に大改造したが、交通規制はあるものの、大通りを人力で引きまわして現在(平成15年)に至っている。
江戸時代の神田大船 (水島爾保布 画)

昭和59年8月の長岡まつりに参加した際の神田大船

蔵王御祭礼傘鉾順  (江戸時代)
三番叟 (人形) 神田一之町
同  二之町
桶屋町
               鍛冶町
宝船 (囃子方付) 神田三之町
松ニ人形 表 一之町
大黒 同 二之町
井筒ニ人形 同 三之町
関羽 同 四之町
武者人形 (忠盛) 同 五之町
海人 呉服町
根笹二虎 関東町
屋台 (はやし方付) 上田町
武者人形 (義経) 裏 一之町
武者人形 (清正) 同 二之町
竹細工之蛤 同 三之町
武者人形 (忠度) 同 四之町
藁細工之獅子二牡丹 渡里町
屋台 (はやし方付) 柳原町
以上
寅六月


神田囃子は江戸時代から脈々と継承されているものです。
下記は長岡城内へのお目見えの図です。
藩主自ら見物されたそうです。